第百回 あれは誰だ


阿佐ヶ谷から東京に行くには、中央線を使います。


先日、あのオレンジ色の電車に乗って、車窓の外に広がる緑の桜と、
線路と並走する翡翠色の川を眺めていました。



すると、彼に出会ったのです。


あまりのことに詳細を書きとめておく暇もなかったのですが、あれは確か飯田橋
過ぎて、トンネルを抜けて川が見えてきて、御茶ノ水あたりで乗り換えようか?
と思っていた時点のことだから、水道橋周辺になりますでしょうか。


電車は、川と線路の間にポツンと立つ、背の高い粗末な小屋の傍らを通り過ぎます。


その小屋の窓はちょうど車窓より少し高いくらいで、おそらく駅の関係者が使っている
ものだろうと思われます。

景色を眺めていた私の目には、当然のようにその小屋の内部も飛び込んできました。
あんなのあったっけ……? と無意識に注視する、それは一瞬の出来事でした。



黄色いコートを着込んで駅員の帽子をかぶった背の高い男が、窓を閉めたまま
体を斜めに前に傾かせて、口は閉じたまま血走った目だけは一杯に開いて、
車内の様子を一心に伺っているではありませんか。
デパートの男店員が「少々お待ちくださいませ」の姿勢のまま、固まっているようです。
その光景は文字通り一瞬で遥か彼方のものになってゆきます。
午後の陽光にテラテラと照りかえる濁った白目も、小さな黒目もいやにツルンとした
顔も、見えなくなってしまいました。


慌てて今の謎の男を見た人を探して車内をキョロキョロしましたが、他の乗客は
見ていないのか、いたって平静な風です。











怖いよーーーー。



今のなにーーーーーー。



もしかしたら、とても目のいい駅員が、不審人物を見張るためにあそこに置かれている
んでしょうか?
それなら自分の怪しさをまず正せと言いたい。


それとも、この年齢にして、初めて見ちゃったんでしょうか。


やたらキョロキョロしていたので、他の人たちに却ってジロジロ見られてしまいました。
日が曇って、パッと車内に電灯が点されます。

フッと窓に映った私の顔は、あの謎の男の表情になっていました。




『実話』怪談草紙 (竹書房文庫)

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