備忘録一一 ジギー・スターダスト

六十歳にもなる作家が、「己の無知に悶える」なんて日記に書いているのを見ると、

情けなさと申し訳なさ、恥ずかしさで一杯になりますね。

↑この三つ、うまく言い表せなる一語はないでしょうか?


ああそうか、これが「恐縮」と云うのだな。


めったに感情の揺れる事のない、停滞した日々を暮らす身なので、

言葉の意味を、質量を持って思い知らされるなんて経験にも乏しい。


僭越でありますが、こうした戦慄は一種の興奮剤であります。


何を書こうとしていたかというと、中井英夫の話。







「月蝕領崩壊」を読んでいます。



未読の方へ簡単に言っちゃいますと、伴侶(男)が死ぬまでの日記で、

上の表現は確か「流薔園変幻」(「月蝕領崩壊」に先立つ日記)で見かけたクダリ。


五十代半ばで鏡花を読んで感心したり、禁酒を誓ったその日の夜に飲んだくれ、
結局数ヵ月後、心労で体を壊して飲みたくなくなるまで飲んでたり、
軽井沢でシメジ狩りまくったり、留守番を募集して、紹介してもらった青年が
ブサイクだったから突っぱねたりと、


『優雅で残酷な綺想異風派(コンチェッティスモ)』


を地殻からひっくり返すようなダメーでだっさい親父の生き様が眩しいほどです。



しかし、まだB(中井英夫の伴侶の男性)が退院するかしないか、くらいまでしか
読んでいないのですが、好きな作家の日記を読むなんて、絶対数において希少……
幸か不幸か……かつ、ページ毎に、上で行ったような「脳内作家像の改編」に忙しい。
そうそう、あなたの好きな作家が筆まめな人で、
(作家を捕まえて『筆まめ』なんて妙な形容ではあるが)日記をつけていて尚且つ
それが日の目を見る、なんて確率は、そうはないように思われる。



そしてその中で、ガス屋に払った料金だとか、


ちょうど二十五年前の私の誕生日の出来事だとか、


毎日毎日ビーフシチューとか豪勢なもの食ってるなとか、


夢日記をつけて、小説のネタにしてるけどそれが浅ましく思えて悩むとか、


愛する人が毎秒、死に向けてアクセルを踏み出して、それでもこの日記を出版するに
あたって「最近癌の闘病記とか流行ってるから、それと同列のものに見られたくない」と
プライド見せてみたりだとかしている訳です。



そんで、癌が喉まで登ってきて満足に喋れない相手と電話するだけで幸せを感じて、
Bが普通に家の二階に暮らしていた頃が何と贅沢なひとときだったか、とか、
普通の人みたいな事を言う。




作家にとって、特に彼のようなおターンビな作風を誇る幻想作家にとって、「死」及び
「変身」は、人生を賭して挑む黄金色の荒馬であるはずなのに、
いったん、現実の「死」に向き合ってしまうと、幻想作家は幻想をやめ、残酷な
空想の遊戯に終焉を告げ、「Bにひどいことをし通しで、とうとう救えなかった自分に
死刑を宣告する、そして今は執行猶予中」などと幾何学精神の欠片もない
写経の毎日に突入してしまうのか、
まー病人が肉親だから飯の種とかパブリックイメージとか、
気にしてる場合じゃないっていうのは伝わってきますが、


「あ……別にこの人、マニエリスムの徒でも何でもなかったんじゃん」


と気づいた私の、そう、これを書いててどんどんそれが鮮明になっていったんですが、
幻滅のようなもの。


少し違うかな。あまりにも、人は生を前にして千変万化し、死を前にして均質になると
いうこと、それは希代の幻想作家であっても、迫りくる悲しみには一個の泣き叫ぶ
石くれに変えられてしまうのだな、という……


当たり前っちゃ当たり前なのですが、そう、なんていうのかな……



恐縮した訳です。




人見広介は、小説なんて書いてるわりには、物事に対するリアクションが
ステレオタイプな方です。しかも遅い。


今、かたわらに、卒業のおり、後輩たちからいただいた花が飾ってあります。
これらの水を毎日替えてくれる人がいて、とてもありがたいなぁ、なんて思う。


でも、そんな普通な感想じゃ、いかんだろ、とも思うのです。


小説を書くんだったら、もう少し、言葉が出てきて、ひねくれていないと能がない、
そう思います。


中井英夫も人間で、私も同じ人間で、私が能無しだと思っている誰かも、同じ人間。


その事はこの世界に在るという前提で、安心もするのだけれど、
時を同じくしてまた、戦慄の対象にしかなりえないのです。


人見広介は、中井英夫が大好きです。
特にネーミングセンス。「夕映少年」なんて最高。
全集はまだ二冊目なんですけど、(10冊くらいあるらしい)



日記なんて最後に読めばよかったよ……orz


と思っています。





ね、フツーの感想でしょ。



平均的ニッポン人白書〈’87年度版〉

平均的ニッポン人白書〈’87年度版〉