第七十九回 食エッセイこもごも

食に関する文章が好きです。


外国とか、地方の美味であるとか、読んでるだけであてのないやっかみをもよおしたり、
喉ごしを想像して、今日は久々に魚でも食ってみるか、みたいな気になる。


周囲に幸か不幸か美食家なる人種がいないので、人から美味いものの噂を聞く機会は
寡聞にしてありません。
しかし、その手の話は冒険譚だとか、色恋沙汰にまつわる事柄よりも、
その話しぶりや、その時の環境が大事になってくると思うんですよね。
(たとえば、海辺でぶらぶら散歩をしながら、どこそこの海で食べた某魚介は
絶品だった、などという話をされてごらんなさい。浅瀬で泳ぎ回る小魚を見る目が、
一瞬のうちに色を変えるね。ああ、いいなあそういうの!)


環境なんていうのはその時その時で大幅に違ってくるものだから、
やっぱり美味しいものの話は、話し手の話術に左右されると見てよいでしょう。


で、今日は久しぶりに部屋の掃除をしていた訳です。
予想通り本棚周りに来ると、文庫なんぞを引っ張り出して、寝っ転がりだして、
煙草なんかやりだして、もう止まらない。


そんな訳で丸谷才一のエッセイを読みながら、上のようなことを思った次第。


でも、おいしいものの話を書き連ねるというのは、
我々読者に対して、何か、求めてるんでしょうかね?




腹減りの状態で読むと、さらに腹が減るのは天の理だからいいとしまして、
お腹がいっぱいの時。もしくは食事中。
おまけに学生の身分だから、昼飯は築地で天ぷら蕎麦なんていう風情は出せません。
脂身の多い鮪の刺身をいかにして上手に食べるか、などのご高説を目でたまわりながら、
コンビニの和風ハンバーグと春雨サラダを突っつく。
腹が減ってる時よりも、これはちょっと空しい。いや、凄く空しかったのであります。


そしてそれは、海外の珍味とか、実物を見たことも嗅いだ事もないような料理なら
マシというものですが、



大根おろしの最も簡易でうまい食べ方は雪虎。
これすなわち、油揚げを七厘か油を敷かないフライパンでかりっと焼いて、
たっぷりの大根おろしと、酢をちょろっと垂らした醤油でいただく也」



なんてね、想像のつく範囲でやたらと美味しそうな記述が一番つらい。
なんで今冷蔵庫に大根と油揚げがないのか、くやし涙も滂沱たるものです。
無双の筆でこの世の美味を妄想させる筆者たちは、一体何を考えているのか。
何回読んでも、この思いは喚起される、不思議ですね。



それと、料理のレシピ、つまり作業手順を載せてある時も困る。


あるとき、伊丹十三の文庫本を読んでいて、そこに最高のパスタの調理法なるものを
発見したと思いねぇ。
さっそくパスタなり、トマトの缶詰なりを賑々しく台所に取り揃え、
腕まくりも勇ましく調理に取り掛かったわけです。


ところが、である。
相手は文庫本だね。字が小さい。図も無い。おまけに注釈はページをめくって、
次の段落に書いてある。しかもいかにもさりげなく、「あ、そうそう」みたいな
調子でさらっと重大機密が紛れ込んでいるから憎らしい。
であるからして、水辺に本を持ってくるわけにもいかず、何度も机に戻る、
該当する部分を探す、そのうちにパスタは茹で上がるわ、ソースは煮詰まるわ、
皿を温めておく手筈をすっ飛ばすわ、滑った転んだ、結局文庫本は水とトマトで汚れ、
べちょべちょのトマト・スパゲティがその日の食卓に供された、という、
思い出すだに目を細めてしまう1ページがあるのです。一人暮らしでよかった。


まあ、その騒乱を繰り返すことによって、今では手順から何から残らず暗記しております。
知識は苦労なくしては得られないという教訓ですな。



人見広介は、食べ物にまつわるエッセイが大好きです。
惜しむらくは、数世代前の美食家たちのように、
汚染されていない土壌で育った作物を食べられない、ということです。
畑から掘り出したばかりの野菜なんて、そのまま噛み付く訳にはいかないもんね。



味覚極楽 (中公文庫BIBLIO)

味覚極楽 (中公文庫BIBLIO)